行いではなく、神の恵みによって救われる
「救い」とは、神のさばきからの解放。
救いは、行いではなく信仰によって与えられる。
救いは行いによって獲得するのではありません。あなたが信じる前に、どのような人であったかということで決まるのでもありません。救いは信仰によってのみ得ることができます。
なぜなら、「皆、罪人として生まれる」でお話したように、私たちは自分の罪に対して無力であるからです。どんなに固い決心をしても、罪の思いを消すことはできません。また、止めようと思っても、罪を繰り返してしまう者だからです。だからこそ、あわれみ深い神は、私たちが行いではなく、信じることによって救われる道を備えてくださったのです。
「救い」は、神から与えられるプレゼント(賜物たまもの)である。
神の霊(聖霊せいれい)によって心が新しくされることで、創造主のことがわかるようになり、信仰が与えられる。これを「新生しんせい」という。
「救い」は、この世のいかなる宝に勝って価値のあるものです。
しかし、残念なことに、生まれつきの私たちは「救い」の価値が理解できません。
なぜなら、私たちの心に「罪のおおい」がかかっているからです。
しかし、このかたくなな心が、神の奇跡によって、やわらかくされる人がいます。
その人は、救いの知らせを聞いて後、「聖霊せいれい」=「神の霊」を受ける人です。
聖霊を受けるとき、私たちは本当にキリストを愛し、信じることができるようにされます。
この心の劇的な変化を「新生しんせい」といいます。
新生は、一方的な神の恵みによって与えられます。
そして、新生した人は、次のことに心から同意し、願うようになります。
- キリストは、私たちが住む世界を創造した神です。
この方以外に、私たちが拝むべき神はいない。 - 私は、罪の中に死んでいた者であって、生まれながら神の怒りを受けるべき存在であった。
キリストの「十字架の死」は、私の罪をゆるすためであった。
私は、キリストによる身代わりの死を信じることによって、救いを与えられたい。
天国に入ることを、約束されたい。 - これからは、神の導きに従って生きていきたい。
キリストにならう、正しい生き方をしていきたい。
信仰は、キリストについての聖書のことばを聞くことからはじまります。
私たちも、聖書に書かれた「ことば」を聞き、救いについて知った後、新生を経験しました。
あなたも、この新生の恵みが与えられることを、私たちは祈っています。
もし、あなたが当教会のサイトに書かれていることを読んで、救いの恵みを与えられたいと思うのでしたら、私たちの礼拝に参加してください。そして、聖書に書かれた「ことば」を聞いてください。
良い行いは救いの条件ではない。それは救われた結果生じるもの。
救われるために良い行ないが必要だとか、良い人間にならなけれいけないのではありません。
そうであるなら、誰も救われません。なぜなら、私たちは自分の力では自分の罪をどうしようも出来ないからです。(思いの中で犯す罪だけでも失格だからです。)
ですから、罪があるまま、不完全なままでキリストに罪の赦しを求めるのです。
信者であっても、生きている間は罪が残る。死後に完成される。
生きている間は、信者は完全になることはありません。罪は残ります。
しかし、信じた人は神から「義」と見なされる特権を得ます。
神との関係は回復され、神が「親しい父」となります。
そして、神は信じる人の祈りを聞き、導いてくださいます。
死後、信者の罪は完全にきよめられ、天国で永遠に生きるようにされす。