- 1 人間は、永遠に生きるように造られていた。 「罪」が入った結果、「死」が始まった。
- 2 創造主との関係を失った結果、「罪」を犯すようになった。
- 3 全人類はアダムの子孫である。 1人残らず、罪人として生まれる。
- 4 全ての人は、死後、神のさばきの座に立たなければならない。 キリストによる「罪のゆるし」にあずかっていないなら、罪に定められる。
- 5 人間は、自分の努力で罪をきよめることができない。 すべての人は罪に定められる
人間は、永遠に生きるように造られていた。
「罪」が入った結果、「死」が始まった。
この天地は神によって創造されました。神は、はじめの人「アダム」を完全な大人として創造しました。「アダム」に罪の心はありませんでしたが、神に従うかどうかを選ぶ自由が与えられていました。彼は永遠に生きるように造られていました。しかし「アダム」とその妻「イブ」は、神よりも賢くなりたいという野望を抱くようになり、神の善意を疑って神の命令に逆らいました。
彼らは、「食べれば必ず死ぬ」と神から警告を受けていたにもかかわらず「知恵の木の実」を食べてしまいました。その時、人類に「罪」が入り、神が警告しておられた通り「死」が始まりました。創世記3章全体
死の1つ目は、「霊的な死」です。
人間は、神との親しい関係を失って、自分の知恵と力だけを頼って生きていくことしかできなくなりました。そして自分を造ってくださった神が誰かわからなくなってしまいました。そのため、創造主ではない神々を造って拝むようになりました。人間は神の被造物である木や石を拝んだり、それらで造られた像を拝むようになりました。
死の2つ目は、「肉体の死」です。
アダムが神に背いた結果、すべての人に肉体の死が始まりました。
このことが正しい証拠として、私たちは必ず死ぬ運命にあります。
創造主との関係を失った結果、「罪」を犯すようになった。
人間は創造主との関係を失った結果、体においても、心においても罪を犯すようになりました。
神は、そのような人間をその心の欲望のままに引き渡したと聖書にあります。(ローマ2:19-32)
罪は、殺人、盗み、不倫、人をだます、自己中心など、数え上げればきりがありません。
全ての人が罪人であるから、この世界に人と人との争いや、国と国との闘いが絶えないのです。
全人類はアダムの子孫である。
1人残らず、罪人として生まれる。
人類は、アダムとイブから増え広がったと聖書は語っています。
私たちはアダムの子孫です。アダムの性質を引き継いでいるのです。
ですから、全ての人は、罪人として生まれます。
自分たちで造った神々は拝みますが、創造主を否定します。
そして、心の内に罪の思いを宿しています。
全ての人は、死後、神のさばきの座に立たなければならない。
キリストによる「罪のゆるし」にあずかっていないなら、罪に定められる。
人間は死後、生きていた間に犯した罪をさばかれるように定められています。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル書 9:27)
人は死後、「生きていたときに行ったこと」に応じて、神にさばかれます。
神のさばきの座で正しいとされる人は1にもいない。
「義人はいないひ。ひとりもいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」
(ローマ書3:10)
神は完全に正しい方です。罪を見逃すことができない方です。
そうでなければ、天国は罪人だらけになり、もはや天国ではなくなります。
全く罪を犯さないで死ぬことのできる人は1人もいません。
ですから、全ての人が死後に罪の刑罰を受けることになります。
キリストによる「罪のゆるし」にあずかることだけが、私たちが神のさばきをのがれ、天国に入ることを可能にしてくれます。
人間は、自分の努力で罪をきよめることができない。
すべての人は罪に定められる
人間はどうしても罪を犯してしまう存在
人間は神のいましめを守ることができない弱い存在です。それは、旧約聖書を読めば良くわかります。
イスラエルの民は、神から律法(正しく生きるための生活のきまり)を与えられたのに、罪を犯し続けました。そして何度も神を怒らせました。
キリストによる罪のゆるしが始まっていない時代、人々は自分の罪のゆるしのために、動物のいけにえを神に捧げました。神はその動物が身代わりとなったことを見て満足され、彼らの罪をゆるしました。
ですから、何度も何度も動物がささげられることになりました。このことから、人間はどうしても罪を犯してしまう存在であることがわかります。
清くあろうとする人間の意志はあてにならない。少しのことで罪の思いが沸き上がる。
意志の力で、清くなろう、清さを保とうとする人たちがいます。
山に入ったり滝に打たれたりして、修行を積むことで聖人になろうとする人がいます。
しかし、修行を終えて山から下りて、美しい女性を見た途端に、罪の思いが心に浮かんで来てしまうというのが現実ではないでしょうか。今までの苦しい修行はいったい何だったのかと落胆する、これが人間の本性ではないでしょうか。このほかにも、人々に愛を教えている教師が、友人の成功を聞いた途端に、ねたみの思いにかられる・・など、人間は自分の罪の思いを、どうしようもできない存在ではないでしょうか。
平和な状況では、善人として振る舞うことが出来ても、状況によっては、罪を犯してしまう、罪の思いに負けてしまう、人間とはそういう存在ではないでしょうか。
神のさばきをまぬかれる人いない。
なぜなら、神は人の心にある「悪い思い」をもさばかれるから。
罪としてさばかれるものは、行為として犯した罪だけではありません。神は、その人の心までご覧になります。そうであれば、罪に定められない人は誰もいません。全ての人が神にさばかれる存在です。